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執筆者の写真Satoshi Kobayashi

ガーシュイン/3つのプレリュード

更新日:2020年8月18日

1900年代初頭のニューヨークでは地下鉄が開業、高層ビルの建築も進み近代都市として様変わりをしている、数多くの黒人移民が110番外から北のハーレム地区に流入した。

ハーレムのナイトクラブでは1880年ごろから盛んになっていたラグ・タイムに代わり、ヴァーノン&アイリーン・カースル夫妻とともにフォックス・トロットを始めたジェームズ・リース・ユーロップも演奏していたという。

ローラー・スケートを履いたガーシュイン少年は、ナイト・クラブの外に腰掛け、夢中になって彼らの音楽に耳を傾けていた。

作曲家ジョージ・ガーシュインが生まれたのは1898年ニューヨークのブルックリン、ロシア系ユダヤ人移民の貧しい家庭だった。

ガーシュインが12歳の時、長男アイラにレッスンを受けさせるため母親が中古のピアノを購入する。

文学好きの兄はこれをもてあましたが、弟ジョージは、はじめてやってきたピアノで流暢に流行歌を弾いて母親を驚かた。

その後アーネスト・ハッチソンやチャールズ・ハンビッツァーから手ほどきを受け、商業学校に通いながらピアニストへの道を目指していた。

しかし15歳の時に中退し、ティン・パン・アレイにある楽譜出版社で宣伝ピアニストとして働きはじめる。

マンハッタン28丁目5番街と6番街の間に建つビルには、ブロードウェイ・ミュージカルの音楽に関する会社が集まっていて、そこでは、いつも音楽が掻き鳴らされ、Tin(ブリキ缶)やPan(鍋)を打鳴らしているようなところからこの名で呼ばれるようになった。

その頃のガーシュインについてラグ・タイムの巨匠ユービー・ブレイクが語っている。

「1916年頃、ジェームズ.P.ジョンソンとラッキー・ロバーツがこの才能溢れる白人のピアノ弾きについて教えてくれた。この少年は我々の間でも僅かの者だけができる優れた技術をもって演奏できると。」ガーシュイン18歳、ピアノを始めて6年経った頃のことである。

ガーシュインは、レミックという出版社に身を置いていた時に「スワニー」を作曲するもレミックの眼鏡にはかなわなかったが、後に当時の人気スターであったアル・ジョルソンによって歌われ大ヒットした。

1920年以降は、作詞家になった兄アイラとともにミュージカルやレビューのためのソングを数多く作曲し絶大な人気を得た。

数少ないピアノのためのオリジナル作品のひとつである「3つのプレリュード」は、1923年に作曲されヴァイオリン奏者ハイフェッツなど多くの器楽奏者たちがそれぞれの楽器にアレンジして演奏している。

翌年1924年にはキング・オブ・ジャズと呼ばれダンス・バンドの指揮者そして作曲家でもあるポール・ホワイトマンが企画した《現代の音楽における実験》というコンサートで「ラプソディ・イン・ブルー」を発表し聴衆を歓喜の渦に巻き込んだ。

「ラプソディ・イン・ブルー」はピアノ独奏とダンスバンドのために書かれ、当時まだオーケストレーションが未熟だったガーシュインにかわりファーディ・グローフェによってオーケストレーションされた。

現在よく演奏される版はさらにグローフェによって再編曲されたシンフォニック・オーケストラの編成によるものだ。

「ラプソディ・イン・ブルー」は、アメリカ人の手で初めて作られたクラシックの作品であり、ジャズとクラシックの融合という新しい手法でガーシュインの作曲家としての地位を確固たるものにした。



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